夢ならさめて…

 

〜令嬢・羞恥修羅場(はじしゅらば)〜

≪上巻≫

 

 

 

 

プロローグ:深窓の令嬢

それは、よく晴れた初夏の休日だった。

新宿西口のビル街に立つ、とある高層テナントビルの周囲には、歩道や歩道橋を埋め尽くして、たくさんの人々が集まっていた。

その数たるや実に夥しいもので、まるでマラソン競技の観戦でもしているかのように見えた。しかし、彼らの視線は皆、道などには注がれておらず、全て何やら斜め上方向に向けられているのだった。

その群衆が見上げていたもの。それは高層ビルの途中に故障して止まっている、三方ガラス張りの展望エレベーターであった……。


「……えー、こちらは、新宿西口、MSビルの正面です……。」

新宿駅を挟んで反対側に建つスタジオヤルタの大スクリーンには、某局のテレビ映像が音声とともに映し出されていた。

スクリーンの下には大勢の人々が立ち止まり、その映像を見つめていた。

スクリーンにはエレベーターの箱が下から見上げた格好で映し出されていたが、ガラスが反射するためもあって中の様子までは良く分からなかった。

「……御覧いただけるでしょうか。あの展望エレベーターです……。先ほど、今からおよそ30分ほど前のこと、あの展望エレベーターが突然故障して止まり、今もなお、数人の乗客を乗せたまま7階と8階の間に停止しているといった状況です……。原因はいまだ不明ということで……」

スタジオヤルタの建つ新宿駅東口周辺には、30代前半と思われる男性レポーターの声が響き渡っていた。

彼らのテレビ局では昼の情報番組を生放送中であったのだが、突然入って来たこのニュースのため、急きょ中継を挟んでいたのだった……。


「ああ、全く、動かないわねえ……。」

エレベーターの中では、乗客の中年婦人が苛立った声を洩らしていた。

レポーターが言っていた通り、そこには数人の男女乗客たちが乗っていた。

たった今不平を洩らしていた中年婦人とその連れの婦人。それに、理屈っぽそうな所謂「オタク」風の青年が2人に中年男性が1人……。

そして、その中には、一際人目を引く、美しいミディドレスに身を包んだ1人の娘の姿があった……。

「今日はパーティーでも……?」

先ほど、暇を持て余した婦人連れの1人は娘にそう尋ねていた。

それほどまでに、その娘の出で立ちは華やかで、美しかったのである。

娘は、スカートが2段になって大きく広がる愛らしい薄桃色のミディドレスを着て、窓を背にして立っていた。娘の両肩には提灯袖がふっくらと膨らみ、腰には大きな蝶結びのリボンが印象的に飾られていた。

背のスラリとした美しい娘である。

黒髪はアップに結い上げられ、その後ろ側は真っ白なかすみ草で清楚に飾り立てられていた。  

上品で鼻筋の通った、端正な顔立ち……。

「お嬢様」という言葉がすぐに浮かんで来るような、色白で穏やかな雰囲気の、楚々とした顔立ちであった。

「はい、今日は、お友達の結婚披露宴へ参りますもので……。」

娘は柔らかく上品な笑顔を婦人たちに向けると、鈴を転がすような美しい声で物静かに答えていた。

広く開いた首周りには、真珠のネックレスが3重に巻かれていた。

スカートの前で白いハンドバッグを握っている両手には、手首のところにだけ愛らしいフリルが付いた、白いオーガンジー製の手袋がはめられていた。

俗離れした美しさとでも形容しようか。

その娘の全身は、まるで夢でもあるかのごとき、無類の気品と美とを湛えていた……。

3方をガラス窓で囲まれたエレベーターの中には、晴れ渡った初夏の日差しが一杯に差し込んでいた。艶(つや)やかな生地で作られた娘のミディドレスは、その陽光を受けて目映く照り輝いていた。見るからに上質なダイアモンドサテンで作られたそのドレスは、上品で華やかな光沢を湛えつつ、ある部分は純白に、またある部分はうっすらと淡い薄桃色に輝いていた。

まるで純白の水面(みなも)にホワイトピンクのさざ波が立つのを見るような、実に柔らかく絶妙な輝き。

それは如何にしても筆舌に尽くせぬ、実に見事な美しさであった……。

「ああ、全く……。もう30分も経ってるのよ?」

「ほんと、何をやってるのかしらねえ?修理の人たちは……。」

婦人連れは相変わらず不平を洩らし続けていた。

その横で娘は、ただ黙ってうつむいていた。

否……、「ただ」ではなかった。

娘の様子には、一つだけ大変奇妙な、気になる点があるのだった。

娘は上で紹介した通り、大きく広がった愛らしいスカートを穿いていた。そして、そのスカートの下には、純白のストッキングに覆われた形良いふくらはぎが長く美しく伸びていた。しかし、その娘のふくらはぎは、実は先ほどから、せわしなく交互に摺り合わされていたのである。

白いハイヒールは右、左と交互に軽く浮かせられ、何やら落ち着きなくステップを踏んでいた。

エレベーターの中には冷房が効いていたものの、決して寒いわけでもない。それにもかかわらず、娘の両脚は、先ほどからガクガクと小刻みに震えつつ、落ち着きなく摺り合わされ、そして右、左とステップを踏んでいたのであった……。

一体、この美しい娘は何故、このように落ち着きを失ってしまっているのか……。

その答えは、娘にとって極めて恥ずかしいものだった……。

その答えとは……、




――娘は、尿意を催してしまっていたのである……。





ドレスの股間を握りしめ…

「お嬢さん、どうも駄目ですね、この渋滞は……。」

ハイヤーの運転手は疲れたようにハンドルを握りしめたまま、フロントガラスの前方を見つめて後席の娘に言った。後席には薄桃色のドレスに身を包んだ美しい娘が、困惑した面もちで座っていた。

白石紀子美(きこみ)、23歳。

彼女は某大学教授の一人娘であった。

「紀子美」と書いたのは誤植ではない。彼女は変わり者の父親のため、妙な名前を付けられてしまったのである。

彼女の祖父は、天皇陛下の御前で御進講を任されるほどの大学者で、著書も多数を数える大人物だった。紀子美たち家族が住んでいる家は成城でも屈指の豪邸だったが、その家も祖父名義のものなのであった。

「ああ……、全然駄目ですねえ、こりゃあ……。」

ハイヤーの運転手は、しきりにボヤき続けていた。

それは、紀子美がエレベーターの故障に巻き込まれる数十分前のことであった。

友人の結婚披露宴に出席するため新宿のホテルへ向かっていた紀子美のハイヤーは、あと少しでホテルというところまで来て渋滞にはまってしまったのである。

先ほどから百メートルも動いてはいない。

紀子美は美しいドレスを着てハイヤーの後席に座りながら、何やらモジモジと両脚を摺り合わせ、フロントガラスの向こうを見ていた。

上品な化粧を施した紀子美の顔に、一筋の汗が伝う……。

実はこの時から、紀子美は尿意を催してしまっていたのだった……。

「おおっと!危ねえなあ……!」

その時、運転手はハイヤーを動かすなり、そう口走りつつ急ブレーキを踏んだ。

紀子美は思い切り身体を前にのめらされ、思わず両脚をふんばった。

紀子美の顔が苦痛に歪んだ。

「お嬢さん、どうもスミマセン……!」

運転手は後ろを振り向いて紀子美に謝った。

紀子美はあやうくの失禁を堪え、顔面を蒼白にしていた。

座ったまま出てしまいそうだった。

――こんなところでお粗相なんかしたら……!

紀子美の顔に大粒の汗が何粒も浮かび上がって来た……。

紀子美は祖父からの勧めもあって、毎朝たくさんのフルーツと水分を摂ることにしていた。この日の朝も、オレンジやパイナップルなど水分の多いフルーツ各種の他、ミルクティーを2杯、さらにミネラル水を五百ミリリットルも飲んで来ていた。「ミネラル水を五百ミリリットル」というのは尋常ではないが、それは祖父からの薦めを紀子美が忠実に実行しているもので、もちろん彼女の自発的なアイディアではなかった。

ところが、である。彼女が今日乗ったハイヤーには、それに加えて強烈な冷房が効いていたのだった。

その中に長時間座っていたのはいけなかった。

紀子美はやがて尿意を催してしまい、今や哀れにも失禁寸前の状態にまでなってしまっていたのである……。

ハイヤーは少しだけ進んでは、また止まってしまう。

紀子美は顔を苦痛に曇らせながら、両脚を摺り合わせ、左右の手では艶やかなドレスのスカートをそっとさすったりしていた。

顔面にはさらに数本の汗が伝って流れた。

紀子美は両脚を摺り合わせながら、横の座席に置いてあった白いハンドバッグを片手に取り、そしてスカートの上に置いた。彼女は、しばしそのバッグを両手で握りしめていたが、しかし、すぐにまたそれを元の座席に戻してしまった。

もはや、紀子美には自分が何をすれば良いのか分からないのだった。

彼女はスカートをさすり、握りしめ、そして両脚をせわしなく摺り合わせ続けた……。

「あの、あと、どのくらいで着くでしょうか……?」

紀子美は運転手に尋ねてみた。

「さあ……、何しろこんな渋滞ですからねえ……。どうでしょうねえ……。」

運転手の返事は絶望的であった。

その返事を聞き、紀子美の胸中にはある決意が固まって行った。

――もう、ハイヤーを降りてしまおう……。

しかし、紀子美には、「降ります」の一言が容易に言い出せなかった。

そんなことを言ったら、自分が尿意を催したことを運転手に悟られてしまうのではないか……。

紀子美には、その心配がナンセンスであることも分かっていた。しかし何となく、彼女はそんな心配を抱いていたのである……。

紀子美は両脚を摺り合わせ、高まって行く尿意を必死に堪えていた。

と、その時である……。

「お嬢さん……。」

運転手は急に後席を振り向いて紀子美に声をかけた。

うつむいていた紀子美はビクリとして顔を上げ、緊張した。

――尿意を悟られた……!?

紀子美は一瞬そう恐れた。

しかし、それは杞憂であった。

運転手は急に話題を思い出し、振り向いただけだったのである。

「お嬢さん、そう言えば、今思い出したんですけどね……、この間『文芸論壇』でお嬢さんの記事読みましたよ……。」

『文芸論壇』とは伝統ある月刊誌で、その巻頭に先月、紀子美たち家族がカラー写真付きで紹介されていたのである。

「お嬢さん、フルートをなさるんですねえ……。いや、あの写真のドレスも素敵だったけど……、今日のドレスも実に綺麗だなあ……。」

運転手は紀子美のドレスを見回しながら、雑誌に載っていたクリーム色のロングドレスを思い出し、比べていた。

紀子美は引きつった顔で精一杯微笑み、「いえ、そんな……」とはにかんで見せた。

「変な話だけど、そういうドレスっていくら位するんです……?いや、うちの娘にも買ってやりたいなあと思うんですけどね、いくらかかるんだろうってねえ……ハハハ……。やっぱ、私なんかには無理なのかなあ……。」

運転手の話は長引きそうだった。恐らく紀子美の退屈を紛らすためのサービスのつもりなのであろう。しかし、尿意に苦しむ紀子美にとっては、一種、拷問であった……。

「あ、あの、運転手さん……。」

紀子美は話を遮ることの罪悪感と、それに先ほどから感じていた羞恥との両方のため胸をドキドキさせつつも、勇気を振り絞って運転手に言った。

「はい……?」

運転手は笑顔で応答した。

紀子美は運転手の顔を見ると一瞬躊躇して黙ったが、しかし彼女は両脚を摺り合わせつつ、思い切って言った。

「あの、すみません……、私、ここで降ろしていただけますか……?」

運転手は「え?ここで?」と意外そうな顔で言った後、「でも、まだホテルまでちょっとありますよ……?」と付け加えた。

「ええ、でも、いいです……。ここで降ろしていただけませんか……?」

紀子美はそう言いながら、早々と片手でバッグを取り、もう一方の手はドアへとかけた。

彼女はもはや完全に降りる体勢だ。

紀子美の両脚はせわしなく摺り合わされていた……。

すると運転手は、その紀子美の両脚にチラリと目をやり、それから彼女の顔を見た……。

(……!!)

――気付かれてしまった……!?

紀子美はドキリとして運転手を見た。

それは残念なことに、先ほどとは違い、杞憂ではなかった……。

運転手はその時、一瞬、少しの驚きをもって全てを了解したような、そんな表情を紀子美に見せた。そして「そうですか……」と速やかにインパネへと振り返り、彼はハザードを点灯させたのだった……。

――どうしよう、私……。

(……ハズカシイ……!)

紀子美の全身は一気に熱くなって行った。

彼女は、あれほど知られたくなかった恥ずかしい尿意を、ついに運転手から悟られてしまったのだった。

紀子美の色白の顔は、みるみる真っ赤に染まって行った……。

「ホテルまでの道、分かりますよね……?」

運転手はドアを開けると、再び紀子美を振り返って言った。

紀子美は顔を真っ赤に染めたまま運転手の顔も見ず、「はい……。どうも、すみません……。」と言い、ハイヤーを降りて行った……。

――こんなのって……!

――恥ずかしい……!

ハイヤーから降りた紀子美は全身を羞恥に熱く火照らせつつ、小走りに歩道の方へと足を進めた。

太ももまでが熱く火照っていた。

トイレに行きたくてハイヤーを降りてしまうなんて……。

――こんなのって……!

――恥ずかしい……!

その時、ハイヤーの中から運転手が紀子美に声をかけた。

「クルマ、気を付けて下さいね、お嬢さん……!」

紀子美は、その「お嬢さん」という言葉を聞いた途端、胸に一層の羞恥が沸き上がるのを感じた。

――「お嬢さん」だなんて……!

(呼ばないで、お願い……!)

紀子美の美しい目が急速に潤んで行った……。

〃白石教授のお嬢さんが、トイレに行きたくなってハイヤーを降りてしまった…。〃

〃オシッコしたくなってしまったお嬢様。〃

〃だらしのない御令嬢。〃

〃あのお嬢さん、家を出る前にトイレにも入って来なかったらしいぜ……!〃

紀子美は白かった耳をトマトのように赤く染め、哀れなほどに恥じ入っていた。

――おトイレには入って来たけれど……、

――私、毎朝いっぱい、お水を摂るようにしているんです……。

――ハイヤーの冷房が強くて……、私……。

紀子美は運転手に対する虚しい言い訳を、あれこれと心の中で叫んでいた。

まさか、紀子美の心配が的中してしまおうとは……。

紀子美は2度とハイヤーを振り返ることはせず、走りづらいハイヒールの足で、小走りに歩道の上へと出た。そして人通りの多い休日の歩道の上を、彼女は白いハンドバッグ片手に走り始めた……。

――ホテルは確かこちらの方向だった……。

紀子美は広がったスカートを左右に大きく揺らしながら、コンクリートの歩道の上を走り始めた。彼女の足下では白いハイヒールがコツコツとせわしなく音を立て、髪の後ろでは一杯のかすみ草が上下に細かく揺れていた。

紀子美の周りでは、人々が皆、彼女の方へと視線を向けていた。

トイレ目指して人前を走っている、はしたない自分……。

――ドレスを着て、おめかしした姿だというのに……。

紀子美はあまりの惨めさに、涙が出そうであった。

白い便器と放尿の瞬間……。

彼女の頭には、そんなものばかりが浮かんでいた。

――こんな、はしたないこと……。

――私……、

――もう、お嫁に行かれない……!

紀子美の胸には強烈な羞恥が駆け巡っていた……。

ホテルはまだ全く見えて来ない。

しかし、紀子美の尿意はぐんぐんと強まっていた……。

――ああ、出ちゃう……!

――もう、出てしまう……!

スカートの広がった愛らしいミディドレスに身を包んだお嬢様は、ハイヒールの走りにくい足で精一杯に歩道を走った。

――もう我慢できない……!

――どうしよう、もう出てしまう……!

いざハイヤーを降りてみた紀子美は、自分の尿意が思った以上に切迫していたことに今更ながら気付いた。

ただでさえハイヒールで走りにくい上に、あまり急ぐと尿が洩れてしまいそうである……。

紀子美は不自然に内股になりながら、ヨタヨタと歩道を走らざるを得なかった……。

――ああ、こんなひどい格好……!

――恥ずかしい……!

――見ないで下さい……!

紀子美は顔中に汗をかきながら、人々の視線の中を必死に走った。

と、その時。紀子美は前方にMSビルの建物を認めた。

そこは大学時代、紀子美が友人たちとお茶を飲みに来たところだった。

――あそこならトイレが使える……。

紀子美は以前、友人たちと来た際に、そのビルのロビーにある公衆用トイレを使ったことがあった。

彼女はそのトイレを再び借りようと、とりあえずMSビル目指して無様に走って行った……。


MSビルのロビー階では、やはり人々が皆、紀子美の方へと視線を向けた。

ただでさえ人目を引く華やかなドレスを着た美しいお嬢様が、ハイヒールの音もけたたましく、何やら必死の形相で走っているのだ。

髪の後ろには一杯のかすみ草。

首周りには3重に巻いた真珠のネックレス……。

人々が注目するのも当然であった。

――たしか、この奥にトイレがあった筈……。

紀子美は顔中に汗を流し、ドレスの裾を乱しながら、無様な格好でヨタヨタと必死に走って行った。

そして間もなく、紀子美はトイレへと到着した。

しかし……。

それは不運なことだった……。

そのトイレの入り口には、何と「清掃中」の立て看板が出ていたのである……。

紀子美の顔は、焦りと絶望とで引きつった。

紀子美はすぐに周りを見回してみた。

すると、彼女の左前方で、展望エレベーターのドアが今、開くのが見えた。

――最上階のレストラン街にも、きっとお手洗いがある筈……!

紀子美は思わず走り出し、そのエレベーターの入り口を目指した……。


「ああ、まだ動かないのかしらねえ……。」

エレベーターの中では、相変わらず中年婦人が文句を言っていた。

エレベーター故障から45分。

紀子美の尿意はとうに限界を通り越し、今にも尿道を押し広げて勝手に尿が噴き出してしまいそうな状態であった。

紀子美のふくらはぎはワナワナと震えつつ摺り合わされ、白いハイヒールは右、左とステップを踏み続けていた……。

鼻筋の通った、楚々とした顔のお嬢様。

彼女は純白の薄いオーガンジーの手袋をはめた左手でスカートの一部を握りしめ、右手では窓際の周囲にグルリと渡された銀色の手すりへとつかまっていた。今まで手に持っていたバッグは、今や床に置かれてしまってあった……。

そわそわと落ち着きのない紀子美。

彼女は手すりから右手を離すと、その手でスカートを握りしめた。

両手でスカートを握りしめる紀子美。

摺り合わされる両脚の先で、ハイヒールの中のつま先がギュッと力んだ。

紀子美の美しい顔が緊張に引きつる。

――こんなところで……、

――お粗相なんてできない……!

紀子美の脳裏には、今一瞬、自分がこの人前でオシッコを洩らしてしまう恥ずかしい光景が想像された。

23歳にもなってお粗相してしまう自分……。

それは皆、驚くことだろう……。

まるで悪夢のような恥辱の光景……。

物心ついてからオモラシなどしたことのない紀子美には、自分が失禁してしまう光景など、考えるだけでも発狂してしまいそうなことであった……。

紀子美は、また右手をスカートから離すと、元通り銀色の手すりへとつかまった。そして彼女は、その右手に力を込めて行きながら、ハイヒールのつま先にもう一度力をこめて行った。

紀子美の足がガクガクと震える。

もう普通には立っていられなかった……。

紀子美は徐々に膝を曲げて行き、上半身を少し前に倒しながらも、のけ反らせ、いわゆる「屁っぴり腰」のスタイルをとった。

両脚は全く落ち着くことなく、摺り合わされたままである。

白いハイヒールは左右交互に、軽いステップを踏んでいた。

紀子美の前に立っていた男性たちは、徐々に彼女の姿へと目を留め始めた。

この時の紀子美は明らかに異常で、彼らが目を留めるのも当然だった。

紀子美にも彼らが自分に注目し始めたことは分かった。しかし、尿意は強烈で、とても彼女には平静を装う余裕などなかったのである……。

――ああ、見ないで下さい……!

――お願い、見ないで……!

哀れな紀子美は、男性たちの見る前でなす術もなく狼狽しながら、心の中でそう哀願するより他なかった。

おしとやかな御令嬢の紀子美にとって、男性たちの前で屁っぴり腰の麦踏みダンスを披露する今のこの姿は、耐え難く恥ずかしいものに思われた。

――おトイレに行きたいんだって気付かれてしまう……。

――こんなことをしていたら、気付かれてしまう……。

それは確かに、小便を我慢する人間がとる典型的なポーズと言えた。

紀子美の目は潤み、その頬は赤く染まった。しかし、紀子美の脚は激しく摺り合わされ、ハイヒールははしたない麦踏みを続けたままだった……。

紀子美の尿道は今にも勝手に緩み出しそうな雰囲気で、こうしている間にも、いつ失禁が始まるか分からないような気配だった。

周期的に尿意は爆発的に高まり、紀子美の尿道を内側から刺激した。

――もう洩れる……!

――洩れてしまう……!

「ああっ、んっ……。」

紀子美は思わず声をあげてしまった。

婦人連れを含めた乗客たち全員が紀子美の方に目をやった。

紀子美は彼らの注目を浴びる中、右手を手すりからスカートへと移し、そしてまた手すりへと戻した。

両脚はせわしなく麦踏みを続けている。

紀子美の尿道を、さらに強烈な尿意が襲った……。

「んあは、んんっ……!」

紀子美は思わず屁っぴり腰の尻を後ろにグッと突き出したかと思うと、スカートを握る左手に思い切り力をこめた。そして手すりから再び右手をスカートへと持って行き、そちらでもスカートを力強く握った。

エレベーター内の皆が紀子美を見つめている。

その前で紀子美は、再び右手を手すりへと戻したと思うや、またスカートへとやるような仕草を一旦見せた後、結局やはり手すりへと戻した。

両脚は麦踏みダンスを続けている。

紀子美はもう一度右手をスカートにやったかと思うと、また手すりへと戻し、そうしてその直後、今度は左手を信じ難いところへと持って行った。

何と彼女は、落ち着きのないドサクサの末に、その左手を自らの股間(!)へと持って行ってしまったのである……!

彼女は一瞬のうちに、その広がったスカートを押さえ込み、そしてスカートの上から股間を思い切り握りしめてしまった……。

乗客たちの目は、その光景を見て皆一様にギョッと見開かれた。

目映いばかりにおめかしをした、育ちの良さそうなお嬢様が、何と彼らの目の前で、こともあろうに、その恥ずかしい股間(ばしょ)をスカートの上から握りしめてしまったのである……。

光沢ある生地に艶やかな皺が何本も寄るほど、令嬢は思い切り、その股間を握りしめていた……。

お嬢様はみるみる耳までを赤く染めて行き、恥ずかしそうに男性たちから顔を背けた。

そして彼女は膝を曲げ、腰を落として床に膝を突いて行った……。

「……!」

「……!」

一瞬の間があった後、婦人連れの2人が「大丈夫……!?」と声をかけ、紀子美のそばに駆け寄ってしゃがんだ。

「どうしたの……!?」

「大丈夫……!?」

彼女らは紀子美の肩に手を添えてやり、うつむいた彼女の顔を覗き込むようにして尋ねた。

男性たちはどよめいて紀子美を見下ろしていた。

紀子美は左手で股間を握りしめたまま、顔中を真っ赤に染めて泣き出していた。

彼女は失禁したのではなかった

ただ、股間を手で押さえていなければ、もうどうにも尿意を我慢できなくなってしまったのである。

右手は手すりにつかまったまま、紀子美は左手でドレスの股間を握りしめ、泣いていた。両膝は床に突き、彼女は太ももをモジモジと摺り合わせつつ、腰をせわしなく上下させていた。

「まあ、どうしたの、お嬢さん……!」

「具合悪いの……?」

婦人連れは紀子美に問い続けた。

紀子美は声をあげて泣きながら、ひたすら股間を押さえてモジモジと腰を動かしていた。

それは、明らかに尿意を堪える人の姿であった……。

「ひょっとして、あなた……、お手洗い、したい……?」

一人の婦人は、紀子美の顔を覗き込みながら、遠慮がちにそう尋ねた。

ついに、図星の言葉が発せられてしまったのであった。紀子美の胸は羞恥に締め付けられた。

「お手洗いか……。」

「オシッコ……?」

「大丈夫か、おい……。」

男性たちは一斉にどよめき出した。

紀子美はその声を聞いて、恥ずかしさに目から一層涙を落とした。

「お手洗い、したいんでしょう?ねえ、お嬢さん……?」

「お手洗いなの……?」

婦人連れは紀子美に対して心配そうに詰問した。

男性たちは皆、紀子美を見下ろしていた。

紀子美は恥ずかしさに胸が張り裂けてしまいそうであったが、しかし、あまりに切迫した状況のため、彼女はやむを得ず婦人たちに頷いてしまう他なかった。

声をあげて泣きながら、紀子美が女性たちに頷く……。

「まあ大変……!」

「やっぱり、そうなのね……!?」

婦人連れは大声をあげた。

男性たちは再びどよめき、口々に様々な言葉を口走った。

「お手洗……」

「トイレ……」

「オシッコしたかった……」

「いつから我慢……」

「大丈夫か……」

「オシッコ……」

「あのお姉さん、便所に……」

恥ずかしい言葉が男性たちの口から次々に発せられた。

紀子美は思わず顔を歪め、激しく嗚咽した。

婦人連れは紀子美の肩に手を添えたまま、「どうしましょう……」と顔を曇らせて途方に暮れていた。

「ねえ、お嬢さん、もう我慢できない……?」

一人の婦人は紀子美の顔を覗き込み、彼女に対して子供にするような質問をした。

紀子美は一層の羞恥を感じつつも、しかし仕方なく、泣きながらハッキリと頷いた。

「ああ、困ったわねえ……。」

「お手洗いなんてないものねえ、ここには……。」

後の言葉を発した婦人は、そう言いながら辺りを見回した。

すると、その時。彼女はドア脇にインターホンを見つけたのであった。

「あ、私、あれで連絡してみようかしら……。」

婦人はそう言って立ち上がるとインターホンのところへ歩み寄り、スイッチを押した……。




《中巻》へ。
羞恥小説のページトップへ。
ホームへ。

御感想などは

tiara@aiueo.artin.nuまで。

この物語はフィクションです(当たり前か……)。登場する人物、建物などは、駅を除いて全て実在しません。

本作品の著作権は、本作のアップロード日から50年間、愛 飢汚が所有するらしいです。